シハーブッディーン・アル=スフラワルディー

『名士列伝』英訳4巻pp.153-158
Shihab al-Din al-Suhrawardi
「シハーブッディーン・アル=スフラワルディー」

本文

 シハーブッディーン[信仰の灯火]と呼ばれていたアブー・アル=フトゥーフ・ヤフヤー・イブン・ハバシュ・イブン・アミーレクは、スフラワルド出身で、哲学者であり、アレッポで没した。
 一説に、彼の名前は[ヤフヤーではなく]アフマドであるといい、また別の説では称号のアブ・アル=フトゥーフこそが彼の本名であるとする。『ターリーフ・アル=アティッバー』[『医学者分類辞典』]を著した哲学者のアブー・アル=アッバース・アフマド・イブン・アビー・ウサイビア・アル=ハズラジーは、このスフラワルディーにウマルの名を当てており、彼の父については言及していない。しかし、彼の本当の名前は、私がここ[ヤフヤーを本名とする人々の記事の中]に配して示した通りである。
 私はこの分野の学問[伝記のこと]の権威が、彼の名前がこの通りであることを記しているのを確認し、その知識に疑いを入れない他の人々の資料からもこれを確認した。これが私の論拠であり、スフラワルディーの記事をここに置くことにした理由である。
 彼はその時代において、最も学問に熟達した学者の一人であった。
 彼は哲学と基礎法学を、アゼルバイジャンの領域にあるマラーガの街で教えていたシャイフのマジドゥッディーン・アル=ジーリーのもとで、卓越したものを得るまで学んだ。このマジドゥッディーンは、ファクルッディーン・アル=ラーズィー[vol.2-p.652]のもとで学び、その学問を完成させた人だった。
 『タバカート・アル=アティッバー』の著者は、その本の中で以下のように述べている。
「アル=スフラワルディーは彼の時代における哲学の第一人者であり、その学問を完璧に修めていた。基礎法学でも彼は卓越しており、鋭い思考とその考えを正確に表現する能力に恵まれていた。彼の学識は、彼自身が思っているよりも格段に優れていたのである」
 彼は続けて、586年ころに36歳で彼が死去したということを述べている。私はこの記事の最後で、彼の死の本当の日付について述べるつもりだ。その後、彼は以下のように述べる。
「彼はシーミーア[自然呪術]を熟知したと言われている。以下の逸話は、彼とともにダマスカスへ向かうことになった、とあるペルシア人哲学者が述べたものだ。
『我々がアル=カーブーンに到着した時、ダマスカス門の近くで、アレッポへ向かう道の途上にある村があった。そこで我々は羊の群れを連れたトルクメンに出会った。我々は、シャイフ殿[スフラワルディー]に、こう言った。「先生! 我々はあの羊の一頭を食べたくなりました」。彼が答えることには、「私は10ディルハム持っているから、これで羊を買いなさい」とのことである。我々は、トルクメンの男から羊を買い取って旅を続けたが、しばらくもしないうちにこの羊飼いの仲間が我々に追いついてきて以下のように言った。「その羊を戻して小さいのと取り替えてくれ。[あんた達に羊を売った]あの男はどうやってものを売り買いするかを知らないから、この羊の価値は払われた金額よりも大きいんだ」。我々は彼とこの問題について話し合い、シャイフ殿は我々に何が起こっているのか説明してくれた。「羊を連れて行きなさい。私はこの男と話して説得するから」というのである。我々は彼を落ち着かせるのを諦め、シャイフがその男と話している間に道を進んだ。少し行ったところで、スフラワルディーはトルクメンの男のもとから我々に追いついた。トルクメンの男は彼に付いてきて、彼に止まるよう叫んだが、シャイフ殿は相手にしなかった。答えがないのを知ると、彼はシャイフ殿に追いつき、怒って彼の左腕を掴んで、彼を非難した。すなわち、「あんた、俺をほうって行こうってのかい?」。(ところが突然、スフラワルディーの)腕が肩から切り離され、彼の手の中に残り、血が溢れ出た。そのトルクメンの男はこれに驚いて自分を見失い、恐慌をきたして腕を投げ捨てた。シャイフ殿は腕をもとに戻し、それを右手で拾い上げて我々についてきた。他方トルクメンの男はと言えば逃げ出し、シャイフ殿は彼が見えなくなるまで見送っていた。彼が我々に追いついた時、我々は彼の右手の中に手ぬぐいがあるだけで、他には何も無いと気付いた』」
 彼について似たような逸話が多く残されているが、神のみぞ真実を知り給う。
 彼はいくつかの著作を残しており、『タンキーハート』、基礎法学を扱ったもの、『タルウィーハーイ』[『解明』]、『キターブ・アル=ハイアーキル』[『光の拝殿』]、『キターブ・ヒクマ・ティル=イシュラーク』[『照明哲学』]、『アル=フルバ・タル=ガリーバ』と名付けられた書簡、これはイブン・シーナーの『鳥の書簡』[vol.1-p.443参照]の方式や『ヤクザーンの子ハイイ』の方式で一人の著者によって書かれている。この書簡は典雅にかかれており、「心の演説」[と呼ばれているもの]を扱っていて、なんであれ哲学者の方法が結び付けられているのだ。
 以下に示すのは彼の残した言葉である。
「あなたの思考を喜びの追求者の歓喜のような神聖さのイメージのように変えるのがよい」
「聖性の轍は無知なる者の到達できない位階にある」
「罪に依って暗黒に落ちた身体に、楽園の王国は許されない」

(以下、スフラワルディーの言葉が続く。中略)

 彼は他にも素晴らしい詩を残しているが、記事の長さも限られていてそれら全てを紹介するに十分ではない。
 彼はアル=シャフィーイー[vol.2-p.569]の方式の追従者で、アル=ムリード・バル=マカクート[聖なる栄光を探求する熱望者]の称号を得ていた。スフラワルディーは神を信じず、古代の哲学者に追従するギリシアの考え方を保持していることが疑われた。この疑念は大きくなり、彼がアレッポに入ると、ウラマーたちはファトワーで彼の処刑を主張したが、それほどまでに彼らはスフラワルディーに危機感を持った。スフラワルディーを攻撃するのに最も熱心だったのはシャイフ・ザイヌッディーンとマジドゥッディーン・イブン・ジャヘイルである。
 シャイフ・サイフッディーン・アル=アーミディー[vol.2-p.235]は以下のように記している。
「私はアレッポでアル=スフラワルディーと会った。彼が私にいうことには、彼はじき地上の支配者になるだろうというのだ。私は彼がどうやってそれを知ったのか尋ね、その返答がこうだ。『私は自分が海の水を飲み干す夢を見た』。私はそれが学問などの大成を示しているのではないかと指摘したが、彼は自分の考えを曲げるつもりは無いようだった。私には、彼は多くのことを学んだが、判断力には乏しいように思えた」
 彼が殺されるのも無理は無いとかんがえられていた。彼はしばしば以下の言葉を口にした。
「私は自分の足が知の上にあるのを見た。私の血に今や価値はない。嗚呼! 私の悔恨が何の役に立っただろう!」
 この原型はアブールファス・アリー・イブン・ムハンマド・アル=ブスティー[vol.2-p.314]によるものだ。
「私の足が私を死へ向かわせる。私は足が血に濡れたのを知る。私は後悔をやめないが、それは何の役にも立たないのだ」
 これはスルタン・サラーフッディーンの息子スルタン・アル=マリク・アル=ザーヒル[vol.2-p.443]の治世にアレッポでおきたことだ。スフラワルディーはスルタン・サラーフッディーンの助言により、アル=ザーヒルの命によって捉えられ、絞め殺された。処刑が行われたのはアレッポ城で、日付は587年ラジャブ月5日[1191年7月29日]のことであった。スフラワルディーは38歳だった。
 アレッポのカーディー、バハーウッディーン・イブン=シャッダードは彼について『サラディン伝』の中で述べている。スルタンが奉じていた正統性について言及した後、彼の信仰深さについて述べ、そして付け加えている。
「彼はアレッポを治めていた息子にアル=スフラワルディーと呼ばれていた青年を処刑するよう命じた。彼はシャリーアの敵であるとみなされていたのである。[ザーヒルは]すぐに彼を逮捕し、父に状況を報告した。後者(サラディン)は囚人を処刑するよう命じ、彼は処刑された」
 遺体は数日間辻に晒された。
 シブト・イブン・アル=ジャウズィ[vol.1-p.439]は、彼の歴史書に同じくイブン・シャッダードによる以下の言葉を記している。
「587年ズール=ヒッジャ月29日[1192年1月17日]の金曜日、礼拝の時間の後、シハーブッディーン・アル=スフラワルディーの死体がアレッポの監獄から運びだされ、彼の支持者は離散し去っていった」
 ここで付け加えなければならないのだが、私がアレッポに居た時、私はそこで数年間を過ごして法学を学んでいた。そこで、スフラワルディーについて住民たちの間で大きな相違が持ち上がった。彼らはお互いに彼の考えの口述に依拠していた。幾人かは彼はズィンディーク(ザンダカ主義者)で不信心者であるといい、他方は彼は聖人であり奇跡の力を得た恵まれし人であると言っていた。後者の住民はまた、彼の死後、それを証明する出来事があったとも主張した。しかし、大勢では彼は不信心者であるというのが常識的な見方であった。神よ我らの罪を許し、健やかならしめ、今生と来世において悪から遠ざけたまわんことを! 神がわれらを信仰のうちに死なせたまわんことを!
 彼が処刑された日についてはこの記事で記したものが正しい。私が挿入したものの日付に関しては間違っている。三つ目の文章によると、彼の処刑は588年ということになっているが、考慮に値しない。
 (彼の名にある)ハバシュの両音節はaの母音で読む。アミーレクとはペルシア語で「下級アミール」を示す。ペルシア人はkの音を単語の最後につけ、指小辞とするのだ。
 私は既にスフラワルディーの会話についてシャイフ・アブー・ナジーブ・アブドゥルカーヒル・アル=スフラワルディー[vol.2-p.150]の記事で述べた。読者はそちらを参照されたい。

  • 最終更新:2016-02-22 18:53:08

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